『沈黙』遠藤周作

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

その存在を知ってからずっと、夢にまで見てきたと言っても過言ではない「長崎の五島列島」行きを決めた。

ゴールデンウィーク、何をしよう?と(社会人になって何度か失敗した経験から)早め早めに予定を立てなければ…と考えていた3月上旬のこと。ふと「今、五島に行けるのかも」という考えが頭をよぎった。ゴールデンウィークはもろもろ高いと言っても、どうせ夫婦の予定を合わせられるのは高い時期しかないのだし、世界遺産に登録されたら何か損なわれてしまうような気もしたから早く行くべき!と思った。

そして、あれよあれよという間に五島列島行きが決まった。

最初は「かわいい教会が見れる!」というワクワクしかなかったが、情報を集めるほどに「キリシタン迫害」について気になり出す。これは、避けては通れない話題なのでは…?と思い、調べ始めた。

そしてこの『沈黙』に辿り着く。

(以下けっこうネタバレです)

まず驚いたのは、この小説が(誤解を恐れず言えば)意外と「面白かった」こと。

内容は想像していた通りというか、大体の背景は知っていたので予想の範疇だった。結末にも特に驚きはない。

その、ノンフィクションで歴史の教科書にも載るようなわかりきった内容を、遠藤周作という人はここまで劇的に描ける作家なんだ…という事実がまず自分のイメージと違っていた。詳しい人にとっては「何を今さら」という感じかもしれないが、彼が敬虔なカトリックであったという事実が「お堅いイメージ」を作っていたのだと思う。

映画『サイレンス』の予告編を事前に見ていたし、五島のことをさんざん調べていたからかもしれないが、あまりにもハッキリとすべてのシーンが目の前に見えてくるので

「なんだこれは映画を観る必要もないな」

と思ったほどだ。

暗い海の波が寄せてはひく残酷な音。村の日本人たちのおどけた表情や衣服。山の上に身を隠す静けさ。お役人が近くを通り、葉を踏みつぶす足音まで聞こえてきそうだった。

事細かに描かれているわけではない。筆致にしつこさは微塵も感じさせないのに、映像がダイナミックに広がり心理描写もとてもわかりやすいことに驚いた。

↓映画版はこれ。一応観てみようと思ってます。

また、中盤での語り手の転換もとても鮮やかだった。それまでの主人公による書簡という形式は、孤独で弱々しい心情に感情移入しやすい。迫り来る緊張感、恐怖をともに味わう。

そして捕えられてしまう瞬間、語り手をさっと第三者に切り替えたことで、まるで…両手から筆と紙がこぼれ落ちたような絶望感を私自身感じていた。上手いなぁと思う。

でも、捕まった瞬間の一部始終が書簡に述べられているのはよく考えるとおかしいよな…。と後から思ったが、そのあたりは一応回収されている。小説ではどこまで辻褄を合わせるかが難しい。あまり辻褄合わせに必死になる必要もないかなと個人的には思っている。

いつ頃からか、神という存在が果たして何なのかをずっと考えてきた。私にとって、今のところ最もしっくりきているのは以下の定義。

私は神とはパターンであると思っている。(中略)宇宙においては万物に秩序があり、すべての事象が調和し、バランスがとれており、つまりはそこに一つのパターンが存在するということを発見した。昔から人間はそういう秩序、調和、バランス、パターンがあるということに気づき、その背後に人格的存在を措定して、それにさまざまの神の名前を与えた。つまり、存在しているのは、すべてがあるパターンに従って調和しているという一つの現実であり、あらゆる神はこの現実をわかりやすく説明するために案出された名辞にすぎないということだ。 –『宇宙からの帰還』立花隆 p.279

人間は、秩序に何かしらの理由が欲しい。そうでなければ説明できないことが多すぎる。だから神という超次元の存在を置き、すべての説明を省略するのではないか、と考えている。

私は真面目なクリスチャンではないから、そんなドライな考え方をしているんだと思っていた。が、遠藤周作ももしかして同じかも…と思わせる記述があった。

ロドリゴ司祭の心の声が言う。

そんなことはないのだ、と首をふりました。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。 –p.104

これは、海という説明不可能な存在の背景に創造主である神を置くことで、人間が理解を放棄している(理解する必要をなくしている)ということではないだろうか。

そんな司祭は、次第に神が自分たちに手を差し伸べてくれないこと、「沈黙」し続けることに疑問を抱いていく。彼自身、ハッキリとは言えないけれど「ひょっとして神はいないのではないか?」…何度もそう感じただろう。自分や日本人たちがこんなにも苦しんでいる状況は、果たして本当に意味ある試煉だろうか?これほどの苦痛が何のためになる?いつか神は救ってくれると信じているが、本当なのか?と。

なぜ、あなたは黙っている。(中略)なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蝉の音、愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが……耐えられない。 –p.186

先ほどの「もし神がいなければ…」の節から、神がこの世の理屈を説明するために存在することを司祭は心のどこかで理解し、それはつまり私たちが都合の良いように神を作り上げているとも言える…と、薄々わかっているのではないだろうか。

でも、長らく教え込まれた「神」の実在を否定することは、すなわち信仰の否定、神への冒涜であるから必死で首を振る。

ここからは私個人の考えだけれど、それでも神は確かに存在する、ということにしていいと思う。正しいか正しくないかは問題でなく、神が在るから人間は正気を保てる。神が在るから辛いとき、苦しいとき、救いを信じて自分を保てる。ならばそれでいいのではないか、と私は思っている。

問題はこの小説のように、あるいは戦争やテロのように、神という超越した存在をつくるがゆえに人々が争いを正当化できることだ。

でもそれも、仮に「神」というものがない世界があったとしても「神のような何か」がつくられて同じことになるのではないだろうか。日本人の拷問は宗教を楯にしていたわけだが、そうでなくても理由をつけて行われただろう(ここに関してはとにかく日本人の陰湿さを痛感する)。

人間というのはみんながみんな仲良しで平和でまともという風には、どうしたってできない生き物だ。

全てをひっくるめ、わかりやすい比喩を用いて説明するものが宗教だと思う。よく言われるがそれぞれの宗教の神というのはみな同じだろう。先ほどの「パターン」の話のように、環境が変われば見える世界が異なるため、それぞれ別人格が与えられているにすぎない。

 

またもうひとつ、興味深かったのは「日本人のキリスト教信仰は間違った形だ」という説。

「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」(中略)「日本人は美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」–p.236

こういう話を聞いたのは初めてだった。幼い頃から教会(プロテスタント)に行っていたので、日本のキリスト教をあまり疑ったことがなかった。

ロドリゴが五島に初めて行き、信者たちと触れ合ったとき、彼らがあまりに形のあるもの(十字架など)を欲しがることに戸惑っていた。そこに本質はないのに、と。

またこれは五島について調べていたとき知ったことだが、現地で発展したキリスト教は仏教と融合しているようなものもあるらしい。

現代まで続く、日本人のごちゃまぜの宗教観にもあらためて興味がわいた。無節操にクリスマスやらお盆やらハロウィンやら楽しめる精神とはなんなのだろうか。最近ではイースターまで推しているけれど…それはさすがにどうかと思った。

 

他にも色々あるけれど長くなってしまうので、このあたりで終わりに。遠藤周作の他の著作も読もうと思う。

次に読もうと思っているのは…

白い人・黄色い人 (新潮文庫)

白い人・黄色い人 (新潮文庫)

 
海と毒薬 (新潮文庫)

海と毒薬 (新潮文庫)

 

『海と毒薬』は一度読んだのだけどあまり覚えていない。

ちなみに途中で引用していたのは以下の本です。こちらもとても面白いのでおすすめ。

宇宙からの帰還 (中公文庫)

宇宙からの帰還 (中公文庫)