まだ新婚だったころの話

それはあまりにも突然の、一通のショートメールだった。


初めまして建築家の◯◯です。お話ししたいことがあるので、お手すきのとき連絡いただけませんか。


2月18日、大安の水曜日の昼下がり。お昼休憩後のまったりとした空気の事務所内でそのショートメールを受け取った私は、文字通り固まっていたと思う。


すぐにもう一通が来た。

私宛てにメールを送ったけれど戻ってきてしまったから、PCのメールアドレスを教えてほしい、というものだった。

返信しない理由などなかった。


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その前年の11月。

大学を卒業後、一度は設計事務所に就職したもののあまりのハードさに一ヶ月で辞めてしまい、つなぎでやっていた大学の手伝い仕事もそろそろなくなるという瀬戸際だった。

時間だけはあったから、建築の本を読みふけっていた。

その中でも、ある初老男性の著作はなんとまあ建築家としては異質なほど面白く、ほぼ全てを図書館で借りて読んでしまった。その文章と、飾らない言葉をそのまま形にしたような住宅に憧れ、この人のもとで働きたい、と思った。

私は彼に、手紙と履歴書とポートフォリオを送った。建築をやっていて知らない人はほぼいないという有名人なのに、ホームページすら存在していないのだから、ちょっと変わり者なのがおわかりだろう。どのようにスタッフを募集しているか、なんてもちろん公表していない。

それでも、実はこれは建築をやっている人にとってはあるあるなのだが、「本気で働きたいと思ったアトリエ(設計事務所)には、求められずとも飛び込むべし」という見知った法則にのっとって、体当たりしようと決めた。


…それから一週間がたち、一ヶ月がたち、冬になり、年が暮れても連絡はなかった。

電話をかけてまで自分を売り込む勇気と自信は、私にはなかった。


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年末で仕事がなくなると決まっていた。一人暮らしの私にとって職に就かずに過ごすという選択肢はなく、大学時代の助手に紹介してもらって運良くある夫婦のアトリエで働かせてもらえることになった。

実は紹介されるまで、その夫婦のことをあまり知らなかった。ホームページで初めて見た彼らのつくる住宅は、以前志願した建築家の作品とは似ているようでまったく異なる。圧倒的な感性によって成立する、静かで美しく、でも突き放さないやさしさと鮮やかな光の色に満ちた空間だった。私はひと目で彼らの作品に惹かれた。

幸いなことに一人スタッフが辞めるというタイミングで、大学の後輩でもある私を事務所の方々は暖かく迎え入れてくれた。


そうして家族経営のような小さな事務所で正式に働き始めて、まだたった二週間かそこらのこと。冒頭のショートメールが届いたのだ。


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Gmailのアドレスを送り返すと、わずか30分でメールが来た。

その内容は、スタッフの出入りが極端に少ないから手紙をもらったままになってしまっていたこと、最近スタッフに動きがあって連絡をくれた人に会ってみようと思っていること、そしてよかったら一度事務所に遊びに来ないか、というものだった。

当時の私の気持ちは察するに余りあるだろう。


「…なぜ、今!?」


ただでさえ新入りなのに、その日は仕事が手につかなかった。


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その夜、メールを返した。以下は当時の文章そのままである。


「◯◯さま

こんにちは。お返事をいただき、どうもありがとうございます。

お手紙を書いてから少し経ちまして、生活のためにも仕事を探す必要があったため、ご縁があって今月から別の設計事務所で働いています。☓☓さんというご夫妻の事務所です。

時間も経っていて、お返事をいただけると思っていなかったので、とてもびっくりしました。タイミングが合わなかったのは残念ですが、今の事務所でもとても良くしていただいていて、仕事も充実していますし、辞めるわけにはいきません。

ぜひ事務所に伺いたいですし、お会いしたかったのですが、心が揺らいでしまいそうなので…。またいつか、会ってお話したり、ご指導をいただける機会があれば幸いです。実作も、難しいかもしれませんが、いつか拝見したいです。

これからも建築・著作ともに、ご発表を心待ちにしております。ご連絡を下さり、どうもありがとうございました。」


自分としては精一杯の、これ以上もこれ以下も書けないというメールだった。これで終わりだと思っていた。


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すぐ翌日、返事がきた。


今月から働き始めたということに関して、

本当に、見事にすれ違ってしまいましたね

という彼の口調は、著作で知るお茶目な人柄そのままだった。

さらに、私がいま働いている事務所のことについて、雑誌で見て好感を持っていた、いい事務所に入れて良かった、という。

(こちらの気も知れず、なんと他人事だろう。)

また、私が「心が揺らいでしまいそうなので…」と書いたことに触れ、心が揺らぐようなお誘いはしないからぜひ事務所へ遊び来てください、と書いてあった。


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半ば小躍りで、すぐさま返事を出した。


「◯◯さま

(中略)

暖かいお言葉をかけていただけて嬉しいです。

こんな言い方もなんですが、◯◯さんの事務所が本命という感じでしたので、昨日は若干落ちつかない気持ちになってしまいました。例えるなら、新婚で幸せな家庭を持ったばかりなのに、大好きだった人から告白されたような気分でした…。変な例えでごめんなさい。いま家庭を捨てて駆け落ちすることはできないな、などと勝手に思っていました。(笑)」


そうして、事務所にぜひ行ってみたい、とも書き添えた。

向こうにつられてちょっと調子に乗りすぎたなとは思いつつ、この人ならこれくらい言っても許されるだろう…という勝手な想いはあった。まだ学生気分、怖いもの知らずだったかもしれない。


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翌朝、ショートメールがきた。


新婚の△△さま。本命(?)の◯◯です。


なんと。


一人の人間に、こんなに弄ばれることもなかなかあるまい。


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事務所を見に行ったのは、それから10日ほど経った夜のこと。訪問する時間に合わせてきっかり定時で切り上げねばならず、といって理由を言うわけにもいかないから、その日は一日中ソワソワしていた。

今日はたまたまスタッフがいないから、と彼一人だった。そしてもう一人、同じように志願したという男性がいた。彼は岐阜か長野かどちらかで家具の専門学校に通っていた、という話だったと思う。自分よりたぶん少し若かった。

近くのお店でピザをごちそうになった。何を話したか、もう全く思い出せない。実はそこは私がかつて暮らしていた街で「ああこのピザ屋。いつも看板を眺めていたけど入ったことないんだよな」…なんてどうでもいい印象だけは覚えているのだけれど。当たり前だが緊張していた。メールの印象よりも本人は、すこし真面目な建築家だった。


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それきり、その建築家とは会ってもいないしメールもしていない。数年のうちにまた元の、遠い存在になってしまったようだ。時々新刊が出れば読んでいる。

結果としてその、「本命」の彼とは縁がなかったこと、よかったと思っている。


私は今でも、建築家夫婦のもとで働いている。

他の事務所のやり方は詳しく知らないけれど、ここで本当に多くのことを学ばせてもらっている。それは建築云々よりむしろ「人との付き合い方」だ。打ち合わせではどんな雑談をして心を通わすかとか、工務店の監督と上手くやるにはとか、現場ではどんな風に振る舞うかとか。相手の気持ちを考えて大切にするという、当たり前で難しいこと。

人と付き合わなければ建築は生まれないという事実を、目の当たりにして学んでいる。彼らにとっては無意識かもしれないが、多くの建築家が持たない特筆すべき才能や努力だと、私は思っている。

それから、今この職場では有り難いことに、かなり多くの仕事を任せてもらえている。こんなにやらせてもらえない設計事務所はたくさんあると思う。実際、元”本命”の彼は、どちらかというと自分の手足となって働いてほしいというタイプだった。

失敗もたくさんしているけれど、それは任せてもらえる部分が多かったからだと思う。基本的にあまり悩まず実戦で学ぶ性格だから、たくさん迷惑をかけてきたし、本当に貴重な経験をたくさんさせてもらえた。


正直に言うとあのショートメールが届いた日から数日間は「もっと早く連絡がきていればよかったのに」と考えてしまった。

でも今はそう思わない。これで良かったと心から思っている。


あ、補足みたいになってしまうけれど、つくる建築についてももちろん好きだ。ただ彼らがあまりに天才肌というか「センス」で設計してしまうので、うまくいかなくて苦しむ人(私はそうだから)の気持ちも知りたいなあ…という贅沢な悩みはある。


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分かれ道に立ち、どちらへ進むか選ばなければいけないことが、これまで何度かあった。

私は大学に二度入学したし、しかも落ちこぼれかけたし、周りから見れば回り道をしているように見えるかもしれない。でも自分では「失敗した」と思ったことが、実は一度もない。考え方はしめっぽい人間なのに、たまに強烈にポジティブなんじゃないかと思う。

すごく前向きに捉えれば、回り道をできた分のたくさんの経験は、いま、見えないところで自分の思考や見える世界を支えてくれている気がするのだ。


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そんなこんなで、今年になってから。


実は、突然ショートメールをくれたあの建築家のように、私ももっと文章を書いてみたいという気持ちがある。

彼のように、日常のたわいもない事や旅をしたり建築に触れたりして考えたことを、たくさんの人に飾らずに伝えて、読んでもらいたい。

それが建築家としてのものかどうかは、まだわからないけれど。


この想いは、まだ夫にしか打ち明けていない。



さて、次の転機はいつ、どのような形で訪れるのだろうか。





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